罪と業と因果のお話。誰も罪を犯していなし因果応報もない!?

罪と業と因果のお話。誰も罪を犯していなし因果応報もない!?




※このブログは2021.4.27にYoutubeにて動画公開した内容を、文字起こししたものです。

こんにちは、スピリチュアリストのNORIです(*´ω`*)

今日もご視聴いただき、ありがとうございます。

今日は、「罪」というものの考え方、更には「因果応報」や「カルマ」や「業」というものについて、あらためて話してみようと思います!

ただ、今日のお話の結論である、わたしの考えを先にお話しますと・・・

因果応報やカルマ、罪、業と言ったものは無い!とお伝えしようと思っています。

とうよりも、因果やカルマ、罪や業が、わたしも含めて、結構勘違いされてきたのかな?と言ったほうが正しいのかもしれません。

そのため、因果はある?とも言えますし、無い?とも言えるのです。

それでは、詳しく解説していきますねー☆

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「罪」とは何か?

聖書でよく言われる「罪」という言葉があります。

キリスト教では「人は罪人である」とされており、全ての罪をイエスが一人で背負ってくれたので、イエスを信じれば罪から開放されて幸せになれますし天国に行けますよ〜☆というのが、キリスト教です。

しかし、わたしは以前から、この教えに違和感を感じていました。

なぜなら、わたしは昔から真面目なので、万引きとかしたことないですし、自分が罪人だなんてどうしても思えなかったからです。

そんな事を考えつつ、あらためて「罪」という言葉を調べていたら謎が解けました☆

おそらくですが、聖書を翻訳する最に「罪」という言葉が、うまく日本語に訳せなかったでは?と思うのです。

日本語で「罪」と解釈されている言葉は、ヘブル語では三種類あるそうで・・・

ハッタート →目的を見失なっている様、的外れな状態
アボーン  →過ちを犯してしまった状態
ペシャ   →神様を冒涜している様

これら3つの言葉が、日本語ではざっくりと「罪」として解釈されている様です。

ちなみに、英語で「罪」に当てはまる言葉は・・・

crime →犯罪
sin  →罪、罪悪

と2種類あり、これも、日本語訳した時に、大雑把に「罪」として訳されてしまうこともあるようです。

というわけで、聖書にある「罪」という言葉を聞いて、「自分が罪を犯したの?」「犯罪的な過ちを犯したの?」と、捉えていたのですが、本当は、そういうことではなかったのです。

「わたしたちは罪人である」の「罪」という言葉は、ヘブライ語の「ハッタート(目的を見失しなっている様、的外れな状態)」が当てはまるそうです。

つまりわたしたちは、悪いことをして罰せられるべき存在なのではなく、イエスから離れてしまった(目的を見失っている状態)(的はずれな状態)なので、再びイエスを迎え入れることにより、イエスを信仰しましょう☆というのが、聖書の正しい解釈だと思うのです。

というわけで、この世の中には、罪人なんて居ないのです。

普段からお伝えしているように、そもそも、わたしたちは、最初から完璧な存在ですしね(笑

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学びには段階がある!?

精神世界のことを色々学んで、自分を幸せにしていこうと思ったら、ある意味「段階」があると思うのです。

これはよくお伝えしてることですが、20世紀までは戦乱の世紀だったので、だから、宗教的な教えが時代にマッチしてたのだと思うのです。

たとえば、「悪いことをすると、神様が上から観ていて罰を与えるから、悪いことをしちゃいけませんよ!」といった教えは、解りやすいのではないでしょうか。

反対に、「良い行いをすれば、神様がご褒美をくれるから、だから、立派な人を目指しましょう!」と言った様な教えも、実に解りやすいです。

しかし、これまでもお話してきたように、あなたに罰を与える(ジャッジする)神様的な存在なんて、本当は居ないのです。

善悪の判断をして、裁きを行う裁判官のような存在が、宇宙にいるわけではありません

しかし、20世紀までは、まだ皆の霊的な進化が未熟だったので、いい意味での方便として、「悪いことをしたらバチが当たる」という教えによって、人々を律する必要があったのだ・・・と、わたしは考えています。

同様に、「人助けをしましょうね!」とか、「立派な人になりましょうね!」という教えも、今までの時代には必要だった考え方です。

しかし本当は、立派な人になる必要なんて無いですし、無理して良い行いをする必要もありません。

小林正観さんや斎藤一人さんの有名な教えに、「ありがとう」と口に出して言うワークがあるのですが、これも、ちゃんと本読むと書いてありますが、自分が「面白そうだ☆」とか「楽しいな☆」と思わなかったら、やらないほうがいいのです。

つまり、「ありがとう」と言うことを「修行」にしちゃいけないのです。

わたしたちは、本当は、今のままで完璧な存在です。

自分が愛の存在であり、自分が「愛」であり「全て」だったということが本当に腑に落ちたら、そもそも人をジャッジしなくなりますし、自然と、人に親切になれるものです。

だから、本当は修行的なワークは必要ないのです。

ただ、段階的に必要な人もいるということです。

実際わたしも、自分の人生が物凄く苦しい時に「ありがとう」と、何百回も言っていた時期があり、そしたら本当に人生が好転しました。

同様に、「愚痴や不平不満を一切言わないようにするワーク」も実践していて、本当に自分が幸せになれたのです。

しかし、愚痴や不平不満を一切言わないようにするというワークが苦痛なら(辛い修行と感じるなら)やらないほうが良いのです。

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因果応報の解釈

次に「因果応報」についてですが・・・

これについてはお伝えするのが難しいのですが、ざっくり言って「因果応報は無い」と言ってしまってもいいと思います。

もちろん、そうは言いつつも、わたし自身、斎藤一人さんが大好きで、当時は、ひとりさんの因果の話が物凄く腑に落ちました。

昔、とても苦しかった時に「因果の話」を聞いて、「自分が今こんなに苦しい思いをしているのは、過去世で何か間違ったことをしたのだろう」と、妙に納得もできました。

そして、その後の「因果の消し方」という話も、更に納得で、「自分に因果が出たら(嫌なことが起きたら)、それはイコール、因果が消えたということなので、だから、もうこの先、何の問題もない☆」という教えです。

しかし今日のお話は、ある意味、こういった「因果」についての考え方を否定する話に聞こえるかもしれません。

まず、因果というのは、シンプルに言って「原因と結果」というだけです。

つまり、前の日に酒を飲みすぎたら、次の日に二日酔いになりました(*´ω`*)・・・これが因果です(笑

次に、「因果応報」というものについて説明します。

因果応報は、因果(原因と結果の法則)によって、「やったことが自分に返ってくる」と、一般的には伝えられています。

これはヒンドゥー教の考え方なのですが、たとえば、誰かが車に惹かれて大怪我をし、道端に倒れて苦しんでいるとします。

こんな場合、因果応報の考え方では、「その人は過去世で悪い事をしたから、いま車に跳ねられるという結果を招いている」ということになります。

というわけで、車に跳ねられた人を、仮に、あなたが助けちゃたら、その人は、せっかく現世で車に跳ねられて苦しむことによって因果を解消しているのに、あなたが助けちゃったら、その人の因果が消えないので、その人のためにならない!ということになるのです。

つまり、本当にその人の事を思うのなら「助けない」という選択をするのがヒンドゥーの考え方であり、実際に、ヒンドゥーの国では、この考えを忠実に守っている地域もあるそうです。

つまり、車に惹かれて道端で苦しんでいる人がいても、誰も助けずに、放置するそうなのです。

こんな話を聞くと、ふつーの感覚なら、「いやいや、それオカシイだろ!?」となると思います(笑

しかし実は、この論法で動いていたのが、オウム真理教なのです。

実際、麻原彰晃は、ダライ・ラマ14世のところへ出向いて、宗教団体の立ち上げ方を相談しに行っています。

麻原彰晃の考え方は、つまり、人は皆んな過去世の業を背負っているので、だから俺達がポアしてあげて、できるだけ苦しみを与えることによって、その人たちの業を消し、魂を開放してあげるのだ☆という正義感で動いていたのです。

だから、あの人達は、自分たちが悪魔的なことをしてるなんて1ミリも思っていませんでしたし、それどころか、「自分たちは人々の魂を開放するんだ!」「人を幸せにするんだ!」と、本気で信じて、地下鉄サリンの様なテロを起こしてしまったわけです。

つまり、因果とは、ただの原因と結果なので、因果の法則はあると言えばありますが、因果応報(悪いことをしたら自分に返ってくる)というのは、無いと言えます。

ただ、宇宙は自分の投げかけたものが自分に戻ってくるだけなので、そういった意味では、因果応報があるように感じてしまいますが、本当はそうではなく、「あなたの行いを裁く存在は居ない」ということです。

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カルマと業

カルマという言葉は、よく「因果」や「業」と同じ様な意味合いで使われていたりして、実際わたし自身も、昔は同じようなモノだと思っていたので、皆様に誤解を与えるようなことをお伝えてしまったかもしれません。

しかし本当は、「因果」と「業」と「カルマ」は全く違うモノであり、「カルマ」とは、単に「行為」とか「行い」という意味なのです。

というわけで、カルマは、決して、過去世の負債を返済することではありません

ただ、「業」については、「前世の業」の様なモノがわかりやすく現れてくる場合もあるので、「前世の業」というものが無いとも言い切れません。

これについては「神様の伏線」という動画でお話したと思いますが、たとえば、うちの一族は、代々、結婚した旦那さんの誕生日が同じです☆とか、うちは、自分と、親父と、おじいちゃん、全員誕生日が同じです☆とか(笑

こういう不思議な話は以外と多いですし、こういう話を聞くと、過去世からデータとして継承されている「業」の様なものがあるという事になります。

ただ、そんな場合でも、「業は負債ではない」と、お伝えしたいのです。

何故かと言うと、この宇宙には良いも悪いもないですし、善悪もないからです。

仮に、どこかの霊能者に、「あなたは過去世の業で人生が上手くいかないのです〜」と言われたとしても、あなた自身が、「わたし、そんなの知りません!わたしは幸せに楽しく生きるので☆」と言えば、それで終わりなのです(笑

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因果・業を気にしなくても良い時代へ

これからの時代は特にそうなのですが、因果(原因と結果)についても、カルマ(行為)についても、「業」についても考えなくていいと思います。

これは、どうしてか?と言うと、わたしたちは「原因と結果」が結びついているように感じていますが、実は、そうではないからです。

前の動画で「パラレルワールド」や「時空間」のお話をしましたが、時空間というものは、言ってみれば、わたしたちの脳みそが観ている幻想ようなものです。

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そして、時空間は一瞬一瞬でしかなく、過去でも未来でもありません。

この時に、瞬間ごとの時空間は、繋がっているようで、実は、繋がっていません。

これは、パラパラ漫画をイメージしてもらうと解りやすいかと思いますが、パラパラ漫画は、1枚1枚の絵は繋がっていません。

わたしたちの人生も同じで、瞬間瞬間でしかありません。

一瞬一瞬の時空間が繋がっていないのなら、原因と結果が、必ずしも繋がっているわけじゃなということになります。

というわけで、「過去世で悪いことをしたら、現世でその償いをしなければならない」とか、反対に、「過去世で良いことをしたら、そのご褒美位を未来世で受けとれる」といった様なお話も、ある意味、方便として伝えられてきたことなのです

わたしたちの魂が望むのは、ただの「体験」です。

いろんな体験がしたいから、何度も転生してきているだけなのです。

例えば、わたしたちも、遊園地に遊びに行ったりします。

ただ、あまり同じことをして遊んでると、だんだん飽きてくるので、今度は、山歩きや登山など、違うことをしてみよう☆と思いはじめます。

あまり平和的な遊びをしてると、また飽きてくるので、たまにはバンジージャンプとかのちょっと危険な体験してみよう☆とか、たまにはお化け屋敷に行って怖い体験をしてみよう☆とか・・・こんな感じに、いろんな事を体験したいと思うはずです。

そして、人生も、こんな感じなのです。

遊園地を行った次の週に「今度は登山をしよう!」と思うのと、「バンジージャンプにチャレンジしよう!」と思うのは、繋がってるようで、繋がっていません。

つまり、「◯◯を体験したい!」という「思い」に因果関係はないのです。

別に、バンジージャンプを先に体験して、最後に遊園地を体験するとか・・・こういう順番でも良いはずです(笑

更に言うと、「バンジージャンプは嫌いなのでパスします!」という選択でも良いのです。

体験の一つ一つに、原因と結果(因果関係)は無いのです。

ということは、人生には因果はありません☆ということになりますし、前世からの「業」も、本当は無いのです

ただ、今ものすごく人生で苦しんでいる人にとっては、こんな論法は、受け入れられないと思うのです。

もちろん、こういう論法をすっと受け入れられる方はそれでいいと思いますが、たとえば、病気で苦しんでいる方に向かって、「人がバンジージャンプなどの恐怖体験を楽しみたいと思うのと同じ様に、あなたが、病気という体験を楽しみたいから、病気の体で生まれて来ただけですよ」と言っても、なかなか納得できない方が多いと思うのです。

それよりも、これまで宗教的に言われてきた、「過去世で悪いことをしたから今苦しんでいるんだ」という、論法のほうが、心が楽になる方も居るのです。

わたし自身、最初に、因果応報の教えを聞いて、凄く楽になりました。

しかし、その上で「因果応報」や「業」というシステムは、本当は方便なんだ!というのが、今日のお話です。

ただ、繰り返しますが、これまでの、宗教的な「罪と罰」という考え方や、「神様が上から見ていて人間をジャッジしている」という考え方、更には、「カルマを精算してして立派な人になりましょう!」という考え方は、これまでの時代には必要だったと言えますし、言い換えると、皆んなの集合意識が、そういう価値観を求めていたのだと思うのです。

歴史背景が辛いと、皆んな救いが必要です。

「祈ることによって苦しみから開放される」という「救世主を求める考え方」も、物凄く解るのですが、しかし本当は、「救いを求める必要もなかった☆」という気づきがあるのが、これからの時代だと思うのです

というわけで、少し前の、トランプ大統領を救世主として崇めちゃうような風潮は、実は、これからの時代の価値観とは真逆の考え方なのです。

簡単に言うと、大きな存在を崇拝する必要なんて無いのです。

お釈迦様やイエス様が偶像崇拝を禁止していたのは、そういう理由からであり、つまりは、「崇めちゃいけませんよ!」ということです。

そもそも、皆んな一人ひとりが神様だから、誰かに依存する必要もなければ、何かを崇拝する必要もないのです。

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最後に・・・

宇宙は、もっとシンプルです。

小林正観さんがよく仰られていた、「宇宙は自分の投げかけたものが返ってくるだけ」という言葉がありますが、「わたしの人生は最高に楽しい!」と思っていると、楽しい人生が続くという、ただそれだけの話なのです(笑

何故かと言うと、まず、時間というのは幻想であって、本当は今この瞬間しか存在しないからです。

宇宙には、今この瞬間しか存在しないのなら、いま楽しくしてればいいだけです。

よく、「良いことがあったら、今度は悪いことが起きる」という話がありますが、これも、わたしは嘘だと思っています。

良いことがあったら、今この瞬間から「良いことの連続だ」と思い込んでいれば、これからも良い事の連続だと、わたしは思います。

この辺も、ある意味ミスリードがあって、わたしたちは、「良いことにの次には悪いことが起きる」と教えられてますし、「人生は苦しいものである」「人生甘くない」「若いうちの苦労は買ってでもしろ」などと教えられてきましたが・・・こういう考え方も、ミスリードだと思うのです。

この辺を「意図的な洗脳だ!」と話す方もいます。

人生は決して苦しいものではないですし、ましてや、自分から苦しい方へ行く必要なんてまったくありません。

だから、「人生甘くない」というのは間違いで、本当は「人生甘い」ですし「余裕」なのです(笑

今日もご視聴頂き、ありがとうございました☆

スピリチュアリストのNORIでした(*´∀`*)ノ

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