人は無我夢中に生きることで今ココを思い出す!?「我」という感覚を忘れることが苦悩からの開放となる

人は無我夢中に生きることで今ココを思い出す!?「我」という感覚を忘れることが苦悩からの開放となる





※このブログは2021.10.8にYoutubeにて動画公開した内容をまとめたものです。

こんにちは、スピリチュアリストのNORIです(*´ω`*)

今日もご視聴いただき、ありがとうございます☆

今日は、スピ界隈でよく言われている「今ココを生きること」が何故大切なのか?

人生の苦しみの根源は何なのか?

なんて話をしていきますね(*´∀`*)ノ

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誰もが苦悩を望んでいる!?

お釈迦様の言葉に「無我夢中」というものがあります。

無我夢中の「無我」とは読んで字のごとく、「我は無い」という意味です。

つまりこれは、ノンデュアリティや非二元の世界でよく言われている「自分はいない」→「我は無い」ということだとわたしは思っています。

お釈迦様は他にも「一切皆苦」「生老病死」「四苦八苦」など・・・いろんな言葉を残していますが、つまりは「人生とは苦しいものである」ということを結論づけています。

では何故、人生は苦しいものなのか?と言うと、実は、人は無意識下においては、誰もが「苦しみ(抵抗)」を求めているからです。

では何故、人は「苦しみ(抵抗)」を求めているのか?というと、実は人は「暇」に耐えられないからなのです(笑

たとえば、わたしも以前は車でサーキットを走ったりして、それこそ「無我夢中」に、速く走ることばかりを考えていた時期がありました。

過去に会社員をしていた時期は、今の何倍もの量の仕事をこなしていて、それこそ「無我夢中」で仕事をしまくっていました。

しかし今思うと、趣味のサーキットにしても仕事にしても、わたし自身が「無我夢中」になることを望んでいたと思うのです。

もちろん今の時代においては、多くの方は、日々仕事や家事にと忙し過ぎる状況にあるので、「健在意識」の部分では「暇な状態」を望んでいることでしょう。

しかし人は、暇すぎる状態にも耐えられないので、「潜在意識下」においては、暇な状態から逃れようとしているのだと言えます。

“暇”という苦悩

たとえば皆様も、趣味などを無我夢中に取り組んでいるその瞬間は、一切の悩みから開放されているということに気づけると思います。

テニスが好きな方なら、相手とパンパン打ち合っている瞬間や、カラオケが好きな方が、好きなアーティストになりきって歌っている瞬間・・・こういう瞬間は、我を忘れて「そのことだけ」に集中していることでしょう。

そして、その事だけに集中している時は、「今この瞬間」しか感じていないのです。

「今」しか感じていないその瞬間は「過去の後悔」や、まだ起きていない「未来に対する心配」から開放されています。

何故なら「悩み」というのは、「過去の後悔」か、「未来の心配」のどちらに発生していて「今ココ」には無いからです。

つまり人は、「暇」という苦悩から逃れるために、「無我夢中」になることで、「今ココ」を生きようとしているというワケです。

そして、「無我」とは「我が無い」ということ、つまりは、意識がもたらす「自分と言う存在が居る」という感覚が、人生の苦しみの根源になっていると言えるのです

これを、お釈迦様は「一切皆苦」と言ったのではないか?と、わたしは思うのです。

“自分が居る”という感覚が苦しみの根源!?

以前に、長嶋さんとのコラボ会で、長嶋さんが仰られていたお話の中に、「この宇宙には自分しか居ないんだ☆」という設定をして1日暮らして見るのがオススメだという話がありました。

ただ、この話も、まだ「ステップ1」の段階であり、「ステップ1」が出来たら、次は「ステップ2」を試してみることもオススメされていました。

では「ステップ2」とは何か?と言うと、「自分しか居ない!と思っていた、その自分さえも、実は居ませんでした(笑)」という設定で、1日暮らしてみるというお話です。

つまり、「この宇宙には自分しか居ない!」という設定は、「ワンネス」への理解なのです

更に、「自分さえも居ませんでした!」という設定は、「非二元(ノンデュアリティ)」への理解なのです

そしてわたしは、「ステップ2」の「実は自分も居ませんでした!」という設定をすることが、苦悩から開放される究極の方法だと思うのです。

何故か?というと、「自分」という存在が居るという感覚が発生していることが、そもそも苦しみの根源だからです

しかし、わたしたちが何かに対して無我夢中になっているときは、この感覚が消失し、「今ココ」に還ってくることが出来るのです。

「今ココ」しか感じていない時というのは、「我を忘れる」から、なんとも言えない安心感を感じるのです。

人は、「我」という主体がもたらす意識があることによって、際限なく色んなことを考えてしまいますし、この「思考のぐるぐる」が、苦しみそのものなのだと言えます。

そしてこの「思考のぐるぐる」から開放されるのが、スポーツであったり、カラオケであったり、無我夢中になっている瞬間なのです。

つまり人は、本質的には「我を忘れて夢中になること」を常に探してる様なのです。

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何かに夢中になる人生

というわけで、今現在、体が比較的健康で自由に動く方は、とりあえず何か夢中になることを探してみるというのが、やっぱり「生きる」ということの本質だと、わたしは思うのです。

よく、「山登り」や「スキューバー」など、ああいったちょっと危険なことをやっている人に、「何故それをやるのか?」と聞くと、返ってくる言葉は大抵同じで、「生きている!」ということを実感できるからだそうです。

ただ、こういう話をすると、「わたしには無我夢中になれることがありません!」「自分が好きなことが解りません!」という方も多いかと思います。

わたしは、そんな方にこそ、小林正観さんの「頼まれごとを断らない」というアドバイスがぴったりなのでは?と思います。

つまり、人からの頼まれごとを損得関係なしに出来る限り引き受けよう!という正観さんの教えです☆

これによって、人との縁が繋がっていったり、どこかのタイミングで、人生の使命の様なものを見つけられるのではないか?と思うのです。

つまり、「頼まれごとを断らない」を実践することにより、結果的に、無我夢中になれるほど好きなことを見つけられるのでは?と、わたしは思うわけです

もちろんこの話も、既に無我夢中になれるようなことを持っている方には関係のない話だとは思いますけどね(笑

仕事に関して言っても、考え方次第であり、仮に同じ仕事をするにしても、「上司に言われてやらされている」と思うのか?

それとも、「自分から率先してやっている!」と思うのか?で、無我夢中になれるかどうか?が変わってくると思います。

つまりは、「仕事に追われる」から辛いのであり、だったら逆に「仕事を追う!」という風に考え方を逆転させればいいのでは?ということです☆

無我夢中は瞑想と同じ?

無我夢中になり「我を忘れる」から「今ココ」を感じることが出来る・・・

この状態というのは、つまりは瞑想状態と同じだと言えます。

我を忘れるほど没頭している瞬間というのは、「我がない」=「意識がない」とも言えますし、言ってみれば「寝ている間」と同じであり、魂の休憩時間だとも言えます。

だから、無我夢中に何かに取り組んだ後は、なんとも言えない爽快感があるワケです(笑

というわけで、「わたしは寝ているときが一番幸せです!」なんて言う方も、実はこの論法は本質を突いていて、寝ているときは意識がなくなるからこそ、お釈迦様の言う「一切皆苦」から開放されるから幸せなのです(笑

今日もご視聴頂き、ありがとうございました!

スピリチュアリストのNORIでした(*´∀`*)ノ

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