意識とは何か?意識は自分以外の存在を見ることしかできない!?

意識とは何か?意識は自分以外の存在を見ることしかできない!?




※このブログは2021.8.8にYoutubeにて動画公開した内容をまとめたものです。

こんにちは、スピリチュアリストのNORIです(*´ω`*)

今日もご視聴いただき、ありがとうございます。

今日は、「意識」のお話をしようと思います(*´∀`*)ノ

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意識とは何か?科学的にも解っていない

手術の際、お医者さんは麻酔を使いますが、しかし、麻酔によって何故意識が無くなるのか?というメカニズムは、科学的に一切解っていないそうです。

この話は、養老孟司さんという解剖学者さんの方が仰られていたのですが、麻酔で意識がなくなるメカニズムがわからない理由は、「そもそも意識とは何なのか?」が、定義できないからだそうです(笑

以下のイラストは以前にもお話しました、足立育朗さんがプレアデス系の宇宙人さんからチャネリングで教えてもらった知識なのだそうなのですが・・・

中性子と陽子のふたつを合わせて、プレアデスの宇宙人さんはエクサピーコと呼んでいて、エクサピーコを我々地球人の知りうる言葉で一番近いものを当てはめると「魂」という言葉が近いそうです。

中性子と陽子は、万物を作る元なので、すべてのモノはエクサピーコだと事が言えますし、「すべてが意識だ」とも言えます。

ということは、意識は何処にでも存在しうるモノだということになります。

各々の意識はまったく違う世界を見ている

たとえば、コウモリさんは目が見えないかわりに驚くべき聴覚を持っていて、自分出した超音波の反射で、まわりの状況を正確に把握することが出来ます。

コウモリさんは、餌として蛾を食べるそうですが、超音波の反射だけで、蛾の位置を正確に捉えて蛾を捕まえます。

しかし、中には毒を持った蛾も要るそうなのですが、コウモリさんは、音の反射だけで、「それが毒のある蛾なのか?」「それとも毒のない蛾なのか?」なんてことも、正確に識別出来るそうです。

こんな事実からも解るように、おそらくコウモリさんの意識の中には、聴覚だけによって形つくられた世界が見えているハズです。

そして、コウモリさんが聴覚によって捉えている世界は、わたしたちが、視覚(目)によって捉えている世界よりも、遥かに精妙で、細かいところまで見ているかもしれません。

わたしたち人間は、主に視覚(目)に頼って世界を観ています。

感覚的には、視覚8割、聴覚2割で、意識の中に世界を投影していますが、ただ実は、わたしたちの視覚は結構ポンコツなのです(笑

たとえば、鷹やハヤブサなんかは、2キロ先の小動物を捉えることが出来るほどの視力を持っていますが、わたしたちの目には、そんな遠くのものは見えません。

目に見える波長にしても、外から入ってくる波長の380nmから780nmまでの範囲の電磁波(可視光線)しか捉えることが出来ません。

例えば、よく言われるのは、ワンちゃんや猫ちゃんは、世界をモノクロで見ていると言われていて、最近の研究では、光の三原色「R(赤)/G(緑)/B(青)」のG(緑)とB(青)しか見えていないと言われています。

つまり、ワンちゃんや猫ちゃんは、(緑)と(青)の掛け合わせでしか世界を見ていないそうなのです。

つまり、何が言いたいのか?といいますと・・・

意識が捉えている世界は、人間、動物、更に言うと、植物、鉱物など、全ての存在で、見ている現象世界は各々バラバラなのです

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感覚に縛られる意識

臨死体験をした人が、あの世の世界を垣間見た際の話の共通点として、「あの世の世界は、言葉では表現できないほど美しい世界でした☆」という話が多くあります。

たとえば、あの世の世界では、草や花などの風景自体が、この世ではありえないような鮮やかな色彩で光り輝いているそうです。

これはどういうことなのか?と言うと、つまり、わたしたちはこの現象界(人間界)で生きている間は、存在する電磁波の中の380nmから780nmの波長しか捉えることが出来ないポンコツな視覚で、世界を見ているに過ぎないのです。

しかし本当は、人間の目に見えないだけで、光には、赤よりも波長が長い「赤外線」や「電波」と呼ばれる波長の光も存在します。

反対に、紫よりも短い波長の「紫外線」「X線」「放射線」という波長の光も存在します。

というわけで結局の所、今わたしたちが見ている世界というのは、ポンコツな感覚器官に縛られた仮想現実世界のようなものなのです

それに引き換え、目が見えないコウモリさんの意識は、聴覚だけで、わたしたちには想像することも出来ないような壮大な世界を認識していることでしょう。

たとえば蜘蛛には目が8個ありますが、8個の目でどの様に世界を見ているのか?なんて、わたしたちには到底想像できませんし、トンボの様に1万個以上の複眼が捉える現象世界も、わたしたちには想像することもできないでしょう。

意識とは、視覚、聴覚、人間の持つ思考などに紐づくことによって、はじめて意識が、「あっ、自分は意識がある」と、認識することが出来るものなのです。

たとえば、意識をカメラだと例えますと、カメラは写真や動画を取ることが出来ますし、マイクで音声も拾って記録することが出来るのですが、しかし、カメラ自体が自分を認識することは出来ません。

つまり、カメラは自分の写真は撮れないのです(笑

意識も、こういうものだと、わたしは思っています。

★中性子 =意識=調和 ★陽子=意志=愛

ということからも解る様に、意識は何処にでも存在するのですが、しかし、意識は外の現象を観察することによってしか、自分を認識することが出来ないということです。

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意識が存在を定義づけしている!?

わたしは、「全てのものに意識が存在している」と考えていますが、ただ、その意識たちが捉えている現象世界は、全て違います。

机の上に置いてある消しゴムの意識が、わたしのことを、どの様に捉えているのか?

わたしが今大事に育てている観葉植物は、目も耳も無いのですが、わたしのことや、外の世界を、どの様に捉えているのか?なんて、人間には到底想像することは出来出来ません。

養老孟司さんのお話では、わたしたち人間は、色んな物を区別したり、グループ化したりして認識しようとする癖があるそうです。

たとえば、皆さまがわたしを見れば、「この人はNORIさんだな」と解りますし、「この人は別の人だな」と分かると思いますが、しかし、わたしと他の人が「同じ人間である」と言った具合に、グループ化して判断することもできます。

しかし、ワンちゃんや猫ちゃんたちは「グループ化」が出来ず、人間一人一人を別の存在として捉えてしまうそうです。

つまり、「同じ人間」というグループ化が出来ないのだそうです。

何故か?と言うと、人は一人ひとり、話す声のトーンも違えば、声の高さも違いますし、匂いも一人ひとり皆んな違うからです。

こういった、「差別化」や「グループ化」の縛りは、わたしちが大人になってから身につけた後天的な感覚だそうで、存在を区別したりグループ化したりするのも、それぞれの意識によって、皆んな分け方がバラバラなのです。

たとえば、石にも意識はあるのですが、では、石をハンマーで2つに割ったら、意識も2つに分かれるのでしょうか?

観葉植物にも意識はあるりますが、では、観葉植物の枝をちょっと切って、違う鉢植えに植え直したら、意識も2つに分かれるのでしょうか?

わたしは、本来、意識は分かれたりするようなモノではないと考えています。

このあたりのお話は、集合意識や、次元のお話も絡んできますので、今回は省略しますが・・・

境目は意識が作っている!?

たとえば、お風呂の排水口に溜まっている髪の毛を見ると、多くの方は「きたねーなー!」と感じると思いますが、しかし、よくよく考えると、その髪の毛は、元は自分の頭から抜け落ちたものです。

自分のうんこを見て「汚なっ!」と思いますが、もともとは自分から出てきたモノです。

ツバを吐くと「汚なっ!」と言うくせに、皆んな平気キスしたりしています(笑

つまりこれは、どういうことなのか?というと、わたしたちは、後天的に自分で境目を作ったり、グループ化したりして、存在というものを区別して認識をしようとしているのです

しかし、本当は、存在には境目はありません。

たとえば、人間の細胞を顕微鏡で拡大していくと、分子→原子→原子核→電子・陽子→クオークが見えてきます。

人間は皮膚呼吸をしていて、皮膚の外にある酸素の原子を皮膚の毛穴から吸み、酸素の原子は、血管の細胞をつくっている原子の流れに乗っかって、体中の色んな所に運ばれます。

ではこの時に、どこからが酸素の原子で、どこからが人間の細胞を作る原子なのでしょうか?

実は、こういった「境目」は、あるようで無いのです。

この様に、素粒子レベルの小さな世界で考えると、あらゆるモノの境目は、実は、あるようで無いという事が解ってきます。

人の体は6兆個の細胞で出来てますが、その体の半分は細菌で出来ていると言われています。

腸内細菌なんかは、数で言えば、人間の体の細胞の3倍くらいあるらしく、人間の体は実は細菌のほうが多いのです。

では、腸内細菌は、人間の体ではないのか?というと、これは違うと思うのです。

一般的な感覚で言うと、皆さんの体は、細胞も、腸内細菌も、全て含めて皆さんの体だと言うことにしていますし、もっと言うと、呼吸によって体に取り込まれた酸素も含めて、皆さんの体なのです。

しかし、こういった存在を、あえて区別する様な考え方も、わたしたちが後天的に得た「存在をとりあえず定義する」という、言ってみれば「分離」の考え方だと言えます。

お釈迦様は「諸行無常」という言葉で、全ての存在は常に変化し移り変わっていると仰られました。

人間の皮膚の細胞も、1週間もしたら表面はきれいに入れ替わっていますし、体全体の細胞も、7年ですべて新しく入れ替わっています。

その上で、「わたし」という存在の定義づけが、便宜上されているのです。

ただ、これも「分離」なのです。

この「分離」の感覚を定義づけしているのも意識の仕業なのでは?と、わたしは考えております☆

今日もご視聴頂き、ありがとうございました!

スピリチュアリストのNORIでした(*´∀`*)ノ

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