死生観と宗教のお話☆わたしは死や宗教儀式をこう捉えています

死生観と宗教のお話☆わたしは死や宗教儀式をこう捉えています




※このブログは2021.11.15にYoutubeにて動画公開した内容をまとめたものです。

こんにちは、スピリチュアリストのNORIです(*´ω`*)

今日もご視聴いただき、ありがとうございます。

今日は、わたしの考える「死生観」についてお話しします☆

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別れは必ずやってくる

まずは今回いただきました質問を紹介します・・・

Noriさんの死に対する考えをいつかお聞かせ願いたいです。

昔の動画で一言「死は通過点」とおっしゃっていたのを共感して聞いていました。

一般的に、死はある意味「敗北」「すべての終わり」とネガティブに捉えられていますが、私は死は終わりではないと思っているので、怖いと思いません。

ただ、自分の大切な人やペットの死は、この世で会えなくなってしまう辛さがとてもきついです(自分の死はよくて大切な人/ペットの死は受け入れがたいとは矛盾していますが)とても難しいトピックですが、いつか動画に上げてくださったらと思います。

この質問にお答えしますと・・・

いくらスピリチュアルや精神世界の勉強をしたとしても、大切な人(ペットも含めて)が亡くなっていくことが辛くて悲しいのはしょうがないのです。

何故か?と言うと、人は別に「死」が辛く悲しいのではなく、「会いたい人と会えなくなること」が辛く悲しいからです

では、会えない人と会えなくなる辛さは、乗り越えなければならないのか?というと、わたしはそうも思いません。

逆に言うと、辛くて悲しいのであれば、辛くて悲しいままで良いのです。

人は寿命があるので、たとえ長年連れそってきた夫婦でも、大抵は、どちらかが先にあの世に行きます。

ましてや、ペットの場合は人間よりも遥かに寿命が短いので、ほぼ100%の確率で、いづれ別れが来るのです。

というわけで、人生に「別れ」というイベントは必ずやってくるのです

では、わたしたちは、人生に必ず訪れる「別れ」に対して、どう向き合っていけばよいのでしょうか?

宗教を持たないほうが幸せなのか?

以前にお話した、アマゾンの奥地に住むアモンダワ族やピダハン族は、神を信じておらず、宗教も持っていません。

では、宗教を持たない彼らは「死」をどの様に捉えているのでしょうか?

これについては、アモンダワ族やピダハン族に限ったことではないのですが、宗教を持たない原始的部族は、「死」を単なる「別れ」や「通過点」と捉えている場合が多い様です。

そして実は、彼らの様に、宗教を持たず、神も信じていない部族のほうが、どう見ても、現在の文明社会に生きる「一神教を信じる人々」よりも遥かに幸せなのです

その証拠に、神や宗教を持たない彼らのような部族は、自殺率がゼロだそうです。

つまり彼らは、「自殺」という概念すら持ち合わせていないのです。

もちろん、特定の宗教を信じている方にとっては、最愛の人が亡くなった際に、「あの人はきっと天国に行ったんだ」と信じることが出来ますし、そういった死生観を信じることによって自分の心を軽くすることが出来ます。

そう考えれば、特定の宗教を信じることも、その人本人にとっては良いものになるでしょう。

というわけで、バチカンに代表されるように、宗教組織がいくら歪んでいたとしても、宗教自体が無くなることはないのです。

それに、宗教は、天国や地獄という概念を作ることによって、人々を悲しみから救うこともしますし、聖典や経典を定めることによって、人々の精神性を高め、人々を律する方向へと誘導することも出来ます。

しかしその一方で、宗教を信じる西洋文明社会に生きる人達が、何故こんなにも自殺率が高いのか?という事を考えてみると、宗教や神を信じることが、本当に苦悩から開放されるのか?と言えば、必ずしもそうではないと言えるのではないでしょうか?

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死を悲しまなければならない価値観

わたしは10年以上前に父親を癌で亡くしていますが、ぶっちゃけ、父親が死んだ時、全く悲しくありませんでした。

何故か?と言うと、わたしは父親と仲が悪かったからです(笑

こんな事を言うと怒られるかもしれませんが、しかし、わたしのように血縁で仲が悪い家族が多いということは、数々の葬儀を見てきている葬儀屋さんにお話を聞けば、事実が解ることでしょう。

たとえば、世界最長寿でギネスブックにも載ったことのある泉重千代さんが亡くなられた際、通夜の席で親戚中が大喜びして大宴会をしたという話があります。

つまり、やっと死んでくれて、皆んな嬉しくてしょうがなかったのです。

何故か?というと、重千代さんはかなりワガママな方だったらしく、重千代さんが生きていたお陰で親戚中が振り回され大迷惑を被っていたからだそうです。

この様に、人が死んでも、必ずしも悲しいとは限らないのです。

しかし、現在の一般常識においては、人が亡くなったら悲しまなければならない様な風潮があります。

ただ、血縁同士で仲が悪い場合など、嫌いな人が死んだとしても、本心を言えばまったく悲しくないどころか、嬉しい場合だってあるというのが、皆の正直な気持ちでしょう。

未来の死生観

たとえば、今後医療テクノロジーがどんどんと進化すれば、人間は、200歳、300歳と生きられるようになっていくことでしょう。

もしかしたら、生老病死の「病」の部分を、いずれ人類は克服してしまう時が来るかもしれません。

そして、何百年後か未来では、生老病死の「死」の克服、つまりは不老長寿をも実現できるかもしれません。

となると、何百年後かの未来の世界では、人は「自分で死を選ぶ」という選択も許される時代になるのではないか?なんて予想も出来るわけです。

何故わたしがそう思うのか?というと、生老病死と言うように、そもそも「生きる」ということも苦悩だからです

というわけで、2000年前に秦の始皇帝が不老長寿の薬を探していたという逸話についても、わたしから言わせる大変な勘違いであると思いますし、そもそも不老長寿が幸せなハズがないのです。

お墓や宗教儀式は誰のためにあるのか?

人が死んだ時、宗教儀式に基づいて葬儀を行うのも、お墓や仏壇を設定するのも、別に「死んだ人のため」ではありません。

あくまでも、故人のことを忘れないようにするためであり、残された人たちの心を軽くするためにあるのだと言えます。

お墓を作って月イチでお参りをするのも、仏壇に線香を上げるのも、今生きている人が死んだ人を「想う」ために、物質的に解りやすい「お墓や仏壇」というモニュメントを設定しているだけです。

というワケで、昔よく心霊番組であったような、「お墓が無いから、ご先祖様があの世で怒っていますと!」なんて話は嘘なのです(笑

それを言ったら、これまでの歴史上、死んでお墓に入れなかった人なんて何億人といるワケですし、もしも死者の呪いのようなものがあるのだとしたら、世界は呪いだらけになってしまいます(笑

映画「はじまりへの旅」で見る「釈迦の哲学」

では最後に、わたしが考える死生観を一番解りやすく表現している映画「始まりへの旅(原題:キャプテン・ファンタスティック)」を紹介します☆

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映画の中で、主人公のであるベンの奥さんが病気で死んでしまうシーンがあるのですが、その際に、主人公が葬儀を行う教会で残した印象的な台詞を紹介します。

妻は仏教徒でした。

彼女にとって仏教は哲学です。

妻は全ての既成宗教を嫌い、最も危険なおとぎ話であり、「無知なものに恐れを抱かせ服従させるのが狙いだ」と言いました。

妻が最も恐れたのは、朽ちゆく肉体が、箱の中に永遠に幽閉されて、ゴルフ場に埋められることです。

続けて、主人公のベンは、奥さんの遺言も読み上げます・・・

私が死んだら、仏教徒として火葬されることを望みます。

葬儀では、音楽とダンスで、わたしの生涯を祝って下さい。

その後、私の遺灰を人が沢山いる公共の場へ持っていき、そのまま速やかにトイレに流して下さい。

わたしは、映画「はじまりへの旅」で、主人公のベンや、奥さんが語った死生観こそが「真理」なのではないか?思うのです。

まず、奥さんの方は、仏教徒と言いながらも、宗教を全て否定しています。

その上で、釈迦の言葉を「哲学」と解釈している点からも解るとおり、「聖人の言葉」と「宗教組織」をちゃんと分けて捉えているワケです

つまりは、宗教的な儀式やオブジェクトなどは、生き残った人たちが持つ感情によって行われるものでしかなく、多くの人は、宗教的な価値観に囚われているために、本質的ではない!ということを伝えようとしているのではないか?と、わたしは感じました。

今日もご視聴頂き、ありがとうございました!

スピリチュアリストのNORIでした(*´∀`*)ノ

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